越後野志 読書メモ と、その他神社仏閣つれづれ

新潟県神社仏閣関連の読書メモです。

越後野志より式社 伊夜比古神社(弥彦神社) 蒲原郡 その2

越後野志より式社 伊夜比古神社(弥彦神社) 蒲原郡 その2


前記事 その1からの続き


越後国蒲原郡弥彦山明神社領の件


弥彦村 500石  山林竹林 先刺?先規の例は長く相違があってはならない、神事祭禮は無◻︎◻︎抜き出せず、国家安全◻︎祈る 

延享四年卯八月十一日


伊夜比古社の伝記では、天香山命天火明命の子  饒速日尊の孫であり、その妃は熟穂屋姫命と名前がある。神日本磐余彦(神武天皇)は、日向国(宮崎県)宮崎の水門より船軍を率いて、東を征伐する際に、神武天皇に逆らう祇人(クニツカミ)が蜂起して皇軍を相距く(あいへだてる?)、中洲国不伏(ナカツクニ マソロワズ)、神武天皇は連戦しても勝てず、木斎国(キイ)に到着した時に、悪神が蠱物(あしもの)を放って、神武天皇は患ってしまわれた。この時、香山命は神邑(かしのくら)にいて、名を高倉下命と言った。神邑の後は、改めて神倉と名付けた。それでもう一つの名前

神倉明神と伝わる。


神が夢に出て高倉下命に言うには、稜威霊剣を、そなたの庫の裏に置いてあるから、これを持って神武天皇に献上しなさいと。夢から覚めた後、庫を開いて見てみると剣があり、底板に立ててあり、すぐに持ち出して献上した。神武天皇はこの刀を得ると増威稜(イサオシタカリ)

(高倉下命は?)中州を征伐した功績により、後に越後国 岩脇米浦(今の三島郡野積浦)に到着し住んだ。浦の人たちに、鹽(塩)を焼き手綱網を作り漁業を教えて、今もその教えを続け、浦の人、世業になり(代々の仕事?)、ハ命ノ餘澤ナリ、それにより名前を手操彦命と名付けた。

(操一、あるいは、手操彦を香山命の子とし、命は鹽を焼く所が女竈、男竈の古い跡が今尚残る)


後に、小佐倉(今の麓村のなかにある)に移り、又、伊夜彦に移住した。2月2日に薨去され御剣山に隠れまつる。


その子を天五田根命と名付けた。薨去後、武暮明神と称し、武呉山に葬った。神陵は三笠山にあるともいう。


その子を天忍人命と言い、薨去後に船山に葬った。船山明神という。船山は井村にあり。


その子、天戸國命は薨去後、草薙山に葬り、草薙明神という。一説に神陵は矢立山にあるとし、ある麓の村の中の観音寺山にあるとする。


その子は建筒草命で薨去後は比曽村の今山に葬り、今宮明神という


その子、建田背命は薨去後は須久留山(すくるやま)に葬られ、勝(すくる)明神という。その山の麓を勝谷という。


その子、建諸隅命が薨去して、本社(モトツヤシ) 端籬(まがき)の内に葬り、乙子(ちとこ)明神という、この命は、葛城直(あたい)大諸見足丹命(おおもろみたるにみこと)の娘を娶り、山跡得玉彦命(やまとうるたまひこのみこと)を生んだ。

この命は淡海國 谷上利沼姫命を娶り、弟彦命が生まれ、弟彦命の弟玉勝山代根子命は、この命と同じ母を持つ兄弟が3人いて、母親は五上臣祖天五上彦女大五媛(イカミノヲンノトヲツチャ)といい、この時、纏向珠(垂仁)城宮御宇にあたり(アメノシタシロスメス)、弟彦命の子を淡屋別命といい、この命は72歳に仕えるのを辞めて葛城山の麓に移り、九代のことを記したものを葛城記と名付けた。一名一言記ともいう。


その3に続きます。