越後野志 読書メモ と、その他神社仏閣つれづれ

新潟県神社仏閣関連の読書メモです。

越後野志より式外社 泉田神社 魚沼郡

式外社 泉田神社


会陽旧事記には、允恭天皇 元年(壬子)越後上田郷泉田に神が現れた


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神社明細帳のスクショを探しましたが、特定ができません。

南魚沼市の東泉田二社、西泉田二社に神社があるようなのですが




[私の感想メモ]

越後野志の記載がアッサリしすぎて、残念ながらわかりませんでしたね


越後野志より式外社 宮地権現 古志郡

宮地権現


宮地村にあり、祭神は不詳。里人が瘡権現という。痘瘡疥癬の類の病を祈ると、甚だしく、霊験があり、祈って疾病の謝礼に菽(豆)を炒って神前に捧げた。どんな例なのか理由は知らない。社地中に煎り大豆を積んで丘のように。


[私の感想メモ]

宮地という地名がわかりません。ネット検索してもわかりませんでした。残念



越後野志より式社 伊夜比古神社 その4

越後野志より式社 伊夜比古神社  その3からの続き


舞楽15曲あり、楽器は太鼓、横笛、(とひょうし)、ビンササラを用い、いつから始まったのかを神職、社司もその年歴を知る者はいない。音律は辺鄙の声で野調であれども、舞はふつつかではなく、雅楽の趣がある。

舞い手は、今風のものを交えず、いにしえから学んで伝わったものを律儀に守っているため、古く雅である。


・焼天乳聲       金鼓一人、鼓一人、捧幣 神主一人

・地久楽           一人面、烏帽子、装束、鈴を持ち、戟(ほこ)舞  小人四人、天冠紫装束、鉢を持つ

・弓舞 小人四人、金銀烏帽子、大口、大刀を帯び弓矢を持つ

・陵王 大人一人、面に赤クマ、金襴のハッピ、大口に太刀を帯び団扇を持つ

・阿磨 大人一人、面、綿子小袖

・憐河 大人四人、風車の天冠、萌黄装束、花を持つ

・神面  大人一人、面、烏帽子、扇を持つ

・二の舞 大人一人、面、烏帽子、装束、平巻の盾を持つ

・小奈曽利 小人一人、烏帽子、千早大口、蛭巻の楯を持つ

・大奈曽利 大人二人、面、烏帽子、千早楯を持つ

・耳珠 小人四人、桂帯差櫛、黄色の装束扇を持つ

・抜頭 小人一人、天冠千早、藻を下げ、扇を持つ

太平楽 小人四人、金銀の烏帽子、大口太刀を帯


  以上  十五曲


鳥居  伊夜日子大明神額    御手洗川

振衣所   神橋 玉橋

隨臣社   舞臺

作事所    神輿屋

拝殿 五間に十五間


末社

草薙神   今宮八所神社

十二所神社     勝大明神

乙王子社       五所大明神 のちの造立で昔からの末社ではない

武呉大明神 西に神供所あり

中殿の西に椎の大樹があり、千歳を経た神物である。箭立山の中に、草薙明神の陵があり、その北方のふもとの林間に箭立明神の祠廟がある。



[私の感想メモ]

弥彦神社の項目、読み疲れました。

さすが一の宮です。



 







越後野志より式社 伊夜比古神社 その3

前記事  伊夜比古神社  その2からの続き  


淡屋別命の子、手占代命(たうらしろのみこと)は尾張大氣命の娘の眞敷利姫を娶り、建稲種命を生む。この建稲種命は、膂力絶倫で氣長足媛(神功皇后)が三韓征伐の時に、軍を従わせ、敵の船を破り、大功を挙げた。玉代媛を娶り、尾綱根命を生んだ。

この尾綱根命は道徳があり、天皇の賢臣になり愛ミタマヒ、大臣にヨザシ、尾治(張)の連の姓を賜り、大連となる椋垣連公の娘、有間媛命を娶り、尾張少(スクナ)弟彦命を産んだ。

この尾張少弟彦命は、賢徳があり、その子を尾張坂合連といい、去来、穂別天皇(應神)の寵臣であり、この子を尾張醒連・その子の尾張弟州(おとくに)連、香山命より、嗣々、御形を寫し神名を書記本殿の内に立ておき、礼奠(神へのお供え、供物)    が今も尚、絶えることがない。

建諸隅命は崇神天皇の勅命を受けて、祠廟を営み、代々、帝による御造営、あるいは修理を行う。

元明天皇神領の境をお決めになられて、東は信濃川を限り180町、西は海辺まで240町。南は大河津村・七石村・曽利榎村・渋田橋・加津茂川を限り280町、北は赤塚・角田浜・佐潟を限り150町、

神職は高橋氏、

社領を進退し宮家と部家の制を受けず、社内にある古来からの職分を守り行う。老官五家、下社家15家があり、香山命の子孫を六王子という。この後裔の老官の内、四家、社家のうちに二家があるという。


次、その4に続きます


   

越後野志より式社 伊夜比古神社(弥彦神社) 蒲原郡 その2

越後野志より式社 伊夜比古神社(弥彦神社) 蒲原郡 その2


前記事 その1からの続き


越後国蒲原郡弥彦山明神社領の件


弥彦村 500石  山林竹林 先刺?先規の例は長く相違があってはならない、神事祭禮は無◻︎◻︎抜き出せず、国家安全◻︎祈る 

延享四年卯八月十一日


伊夜比古社の伝記では、天香山命天火明命の子  饒速日尊の孫であり、その妃は熟穂屋姫命と名前がある。神日本磐余彦(神武天皇)は、日向国(宮崎県)宮崎の水門より船軍を率いて、東を征伐する際に、神武天皇に逆らう祇人(クニツカミ)が蜂起して皇軍を相距く(あいへだてる?)、中洲国不伏(ナカツクニ マソロワズ)、神武天皇は連戦しても勝てず、木斎国(キイ)に到着した時に、悪神が蠱物(あしもの)を放って、神武天皇は患ってしまわれた。この時、香山命は神邑(かしのくら)にいて、名を高倉下命と言った。神邑の後は、改めて神倉と名付けた。それでもう一つの名前

神倉明神と伝わる。


神が夢に出て高倉下命に言うには、稜威霊剣を、そなたの庫の裏に置いてあるから、これを持って神武天皇に献上しなさいと。夢から覚めた後、庫を開いて見てみると剣があり、底板に立ててあり、すぐに持ち出して献上した。神武天皇はこの刀を得ると増威稜(イサオシタカリ)

(高倉下命は?)中州を征伐した功績により、後に越後国 岩脇米浦(今の三島郡野積浦)に到着し住んだ。浦の人たちに、鹽(塩)を焼き手綱網を作り漁業を教えて、今もその教えを続け、浦の人、世業になり(代々の仕事?)、ハ命ノ餘澤ナリ、それにより名前を手操彦命と名付けた。

(操一、あるいは、手操彦を香山命の子とし、命は鹽を焼く所が女竈、男竈の古い跡が今尚残る)


後に、小佐倉(今の麓村のなかにある)に移り、又、伊夜彦に移住した。2月2日に薨去され御剣山に隠れまつる。


その子を天五田根命と名付けた。薨去後、武暮明神と称し、武呉山に葬った。神陵は三笠山にあるともいう。


その子を天忍人命と言い、薨去後に船山に葬った。船山明神という。船山は井村にあり。


その子、天戸國命は薨去後、草薙山に葬り、草薙明神という。一説に神陵は矢立山にあるとし、ある麓の村の中の観音寺山にあるとする。


その子は建筒草命で薨去後は比曽村の今山に葬り、今宮明神という


その子、建田背命は薨去後は須久留山(すくるやま)に葬られ、勝(すくる)明神という。その山の麓を勝谷という。


その子、建諸隅命が薨去して、本社(モトツヤシ) 端籬(まがき)の内に葬り、乙子(ちとこ)明神という、この命は、葛城直(あたい)大諸見足丹命(おおもろみたるにみこと)の娘を娶り、山跡得玉彦命(やまとうるたまひこのみこと)を生んだ。

この命は淡海國 谷上利沼姫命を娶り、弟彦命が生まれ、弟彦命の弟玉勝山代根子命は、この命と同じ母を持つ兄弟が3人いて、母親は五上臣祖天五上彦女大五媛(イカミノヲンノトヲツチャ)といい、この時、纏向珠(垂仁)城宮御宇にあたり(アメノシタシロスメス)、弟彦命の子を淡屋別命といい、この命は72歳に仕えるのを辞めて葛城山の麓に移り、九代のことを記したものを葛城記と名付けた。一名一言記ともいう。


その3に続きます。




越後野志より式社 伊夜比古神社[弥彦神社]その1 (名神大) 蒲原郡

越後野志より式社 伊夜比古神社(弥彦神社) 蒲原郡 その1


祭神 天香山命


日本記神代巻下では、天火明命の兒(子)、天香山命尾張の連の遠い祖である。


天火明命饒速日は、その子、天香山命またの名を高倉下命(たかくらじのみこと)、この12世孫の尾綱根命は應神天皇より恩寵を受けて、尾張の連の姓を賜った。

ある説では、高倉下(たかくらじのみこと)は、天香山命の子である


奮事記の3巻では、高皇産靈尊の勅令で、尾張連の祖である天香山命越後国の防衛を為すため、越後国を平定した。


神名帳考証では、大屋彦命


奮事記では、五十猛神を大屋彦命ともいう。

日本書紀では、五十猛命を称して、有功の神と為す。

調べるに、文徳實録4巻では、勤臣の儀を賜り、姓を伊蘇志臣を賜った。五十は、訓読みで、伊であり、伊の字功訓は伊佐の略であり、

書洛では、功宗を元年とし、功宗之尊という身分の高い者が記されている。


続日本後記では、淳和天皇の天長10年の秋、七月丙戌朔戊子、◯三日  越後國の蒲原郡は伊夜比古神というこの名神(霊験あらたかな特にすぐれた神)が預かっている。蒲原郡は毎年日照りと疫病があるが、雨を降らし、病から救った。


櫻井郷 弥彦荘 弥彦駅にあり、社領500石。



その2に続きます。


[私なりのメモ]

過去の他の神社の記事では、驛を澤と読み間違えていたかもしれません。駅の旧字体の驛を、澤と空目していたかもしれません。直さないと...


天香山命が祭神とされていますが、五十猛命が出てきますね。


功宗という人が始めた王朝があった可能性もありますね。

「越後野志」式社 奴奈川神社 旧西頸城郡

式社 奴奈川神社 糸魚川市


祭神

古事記上巻に八千矛神と高志国の奴奈川姫の歌がある。

舊事記には、大己貴命が奴奈川姫と結婚するために行幸した時に、姫に歌を詠んだ。

この本の四巻には、大己貴命が奴奈川姫を娶り、一男を授かる。その子が、信濃、諏訪の諏訪神社建御名方神という。


出雲風土記によると、天下作った所、大神がオキツクシイノミコトの娘である奴奈川姫を娶り、ミホススミノミコト神を産ませるけれども、この神は、美保という出雲の美保郷にいる。


祠廟は糸魚川東南三丁を隔て一宮村にあり、一名、上刈村、神領百石、社地方三町、天津社と称する。

別当(役職?)神宮寺、野伊奈義権現という摂社があり、

毎年3/10祭礼があり、稚児の舞があり、古楽や、舞の面は古物が多く、横笛、太鼓、しゃく?拍子を使って囃す。音律は辺鄙の声で、はなはだ野調であっても舞い、必ず、雅楽の趣きがあり、12曲を奏でる。


振鉾 小児4人舞

按摩 小児面 1人

難?冠 小児4人舞

抜頭 大人 1人

破魔弓 小児4人舞

兒納曽利 大人2人舞

能抜刀 大人1人面舞

花籠 小児4人舞

大納曽利 大人2人舞

太平楽 小児4人舞

退出

陵王 大人1人舞


小児13〜14才の者を選び集め、大人は例年覚えている者、祭礼の一ヶ月前より拝殿で毎日拍子合わせのため、舞い手、今現在の流行のことを交えず、昔から学んできたままを律儀に守るために、古風で雅であり、その始まった年は土人も知らず、400年前はしばらく間断していたが、近隣の老婆の舞を知り得て中興したという。


土人の説で、大和川村の西方二町、押上浜の海中から昔の年の木神像と鐘を拾って、里人がこれを天津社に納めて、これ以降毎年3/10祭礼にこの像を御輿に載せ、40人烏帽子と狩衣を着て、天津社地内を回ることを三度し、鐘をつき鳴らす。この日以外はこれを禁止している。鐘銘永享四年と記してある。




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「個人の感想」

奴奈川神社は、最初から奴奈川神社ではなく、天津社という名前だったのかな?

奴奈川神社と天津社は、一緒になっています。


故人である73世竹内宿禰の竹内睦泰さんによると、大国主の子に、建御名方とタケツノミがいるのですが、奴奈川姫は建御名方の子であるとして、タケツノミは誰が母なのでしょうか?


越後野志に、他の神社と違って舞について細かく書いてあるので、なかなか珍しい神楽なのかもしれません。


喧嘩祭りが毎年4月にあると聞いています。

糸魚川市役所に近い場所にある神社です。